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2025.01.12 |

硬直するミイラと肩こりの謎

 がんばって言葉は嫌いだけどとか、気づいてあげられなくてごめんねとか、わたしがいるからとか、すごーいじゃないそれだって才能だよ!とか。そういうステレオタイプな発言があまり好きではなく、かなり好きではなく、むしろ嫌いで、そういう言葉を使う人々をこっそり侮蔑軽蔑していたのだけど、しんどかったりめんどくさかったりすると、あー自分も使ってるんだなーということに今更ながら気がつく。
 ひとびとはなんであんなにつまんないことを臆面もなく一本調子で言うんかなー、謎だなーと思っていたが、多分それはいろんなことがめんどくさいからなんだろう。慣用句というのは口当たりがよくて、さらさらしているから楽チンなのだ。自分の頭で考えなくていいから悩む必要はないし、前例がたくさんあるから反発されるおそれもなく、自分の真からの意見でないから否定されたところで自身が傷つくこともない。
 よくある言葉というのは、省エネで世の中を渡っていこうとしたらとっても便利なものだ。するりするりとひっかかりなく世の中を上手にすり抜けていける。
 自分の言葉でしゃべりなさい、というのはよくいわれることであるけれど、あれはけっこうむごい要求じゃあないか。そこでしゃべった”自分の”言葉というのが、社会の言葉から逸脱していたりしている可能性をまったく想定していない。その発言の異端性ゆえに、そのせいで迫害されてしまったりするような可能性をまるで勘案していない。
 受け入れる覚悟もないくせに、そんなこと不用意に口に出すんじゃないよと言いたいような気もするが、そんな慣例句を口にする方々というのは、やっぱり上記の社会文法を完全に内面化しておられる方々で、だから「本気で話そう!」などという、恐れ知らずな発言が出てくるのでしょう。それで、彼らの秩序の外にある言葉がふっと飛び出してきたときに、あわててひどく拒絶するのでしょう。
 先日、お茶したわたしによく似た人は「わたししゃべりすぎてない?うざくない?」となんども聞いた。多分、本人も気がついていないんじゃないだろうかというほど、ふと間が空くと、反射のようにそう言った。このひとはいつから自分のことを語ることに怯えるようになったのだろうと思ったら、たまらないような気持ちになった。

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2009.11.07 | Comments(0) | Trackback() | 未選択

ずるずると引き摺られいく蛇の外皮

 スポーツとか、飲み会とか、とかとか。
 そういうので、不安や不満なんかを解消したり、ごまかしたりというのは実に有効な手段だと思う。
 うげーうげーっとうなりながら、ひたすら寝つづけたり、煩悶しつづけるよりよっぽど健康的。だからわたしもやってみようかと思ったのだが、せつなくなってやめてしまった。わたしが、抑圧し、いないことにしてしまったわたしの感情は、では、どこに行くのだろうかと考えたら、わたしの一部にもうしわけない気がして、やめてしまった。
 腹痛や頭痛もおなじで、わたしの体がシグナルをだしているならば、最後までちゃんと聞いてやらなければいけないだろうというような気がして、彼らがさっていくまでじっとつきあう。かれらが痛みを訴える以上、薬でなかったことにするのは、ひどくむごいことのような気がする。
 けれど、わたしは効率のひどく悪い生き物らしく、それはもう四六時中エンストする。これはさすがに、まずかろうと思ってついに薬に手を出すことにした。ゆっくりと化学物質がわたしのからだ中へと回りこみ、かつてわたしの一部であった痛みをしずかにおおいかくす。これでわたしはすこしは能率的に動けるようになるだろう。わたしはわたしの一部と引き換えに能率を手に入れる。そうか、選択というのはこういうことなのだと思う。意思あるものはみな選択する。かつて自分であったものを差し出しながら、あたらしい自分を獲得する。
 ”わたし”というのはみな意思の総体なのだ。わたしはわたしの意志でわたしを切り捨て、意思するところのわたしに向かって変質をとげていく。
 小学校の保健の授業で、受精できなかった卵子は死んでしまうのだと聞いて、報われずただ死んでいく、誕生にむかうこともできたはずのわたしのなかの幾百の卵子を思ってひやりとした罪悪感をおぼえたことを思い出す。だが初潮をむかえ毎月、月のものに付き合ううちに、そのいたたまれなさも忘れてしまった。
 なんだ。わたしは昔からずっと、たくさんのわたしを切り捨てて生きてきたのじゃないか。
 わたしのからだは、いま、薬のおかげでとてもかるい。軽さが、かつてわたしであったものの喪失をしらしめる。それが、せつなくおもわれるのは、その喪失がまだ新しくなまなましいものだからだろう。わたしが習慣として血を流すようになったように、わたしの選択へのいたたまれなさは、いつか消えていくものなのだろうか。

2009.11.06 | Comments(0) | Trackback() | 未選択

空が高くて眩暈がすると。カエル。

だれかにものすごく優しくしたくなるときがあって、けどそれは多分、自分が優しくされたいときなんだろうなと思う。めんどくせぇ。めんどくせぇよ、おい。
ねじれ、ねじれてでてくる感情をもてあます。発散、というツールをもたないので、そういうときは電源が落ちる。春がくればいいのに、これからくるのは冬でしかない。周囲がゆっくりと眠っていくのに、人間はうごきつづけなければいけない。不便ね、不便ねと思う。



>10月24日に拍手をくだすったお方
あーりーがとうございます。いやもう、うれしいです。うふふふ。
うだうだとあっちゃいったりこっちゃいったりなサイトですが楽しんでいただけると幸いです。

2009.11.04 | Comments(0) | Trackback() | 未選択

するめちゃん道玄坂へゆくの巻

 むかし、久しぶりにあう弟と靖国神社に桜を見に行った。わたしは何も考えずに地下鉄をおりて最寄の出口から地上に出てふらふらと歩こうとしたら、表示で最寄は別の出口だと書いてあったのに、どうしてこんな遠い出口からでるのだと、とても怒られた。
 いつもそんなふうに、ぶらぶらと迷子になりながら歩いていたので、あー、こういうことに腹を立てる人がいるのだなあと、たいそう驚いた。いそぐ用であるじゃなし、というのはこの場合つうじないらしい。驚いてへらへら笑ってしまった。すると弟はさっさかと肩いからせていってしまった。
 わたしは、道に迷わずに目的地に着くと、どこか損したような気がする。目的に最短距離でたっすると、なにかを見落としてしまったような気がする。使えないことおびただしく、人によっては最悪の同伴者だろう。わたしも、それはちょっとどうなのよ、と思うことがなくもない。
 眠らなければと思うほどに、テレビをだらだら見てしまい、予定のつんでいるほどに、あえて遠回りのしたくなる。あの、自分を裏切りたくなるような欲望というのは、どこから出てきているのだろうか。きっと「要領のよいひと」というのは、目的と自分の距離を最短で埋めることに、ためらいのないひとなのにちがいない。それは、すごく強いことで、すげーなーと思ったりもする。
 しかし、彼らは要領よく、コンパクトに、一日にたくさんの予定をこなせるのだろうけれど、おそらく、迷い込んだ住宅地でほそくつづくコンクリートの階段の坂道や、その横に立つ民家の奥まった庭にうわる青い桔梗の花なんかには、会うこともないだろう。だが、気づいたところで、だからどうしたといわれてしまえばそれまであったりもするので、やっぱり、要領がいいほうが便利かしらんとは、思う。

2009.11.03 | Comments(0) | Trackback() | 未選択

世界の真ん中でズラフラッシュ

 生きているのが、かなしくてしかたがないので出家でもしようかと思った。もてる人脈をフル活用して、尼さんをみつけてもらって会いにいった。
 恵比寿ガーデンプレイスでおちあった尼さんは、ふさふさと髭がはえていた。ひげだひげだ、と思うあまり、「青々とよい禿頭ですね」とわけのわからぬことを言ってしまった。尼さんはあいまいに笑っていた。白いいたちによく似たちいさな人だった。いたちに似た人間というのはあまりたちがよくないものなのだけれど、このいたちはよいいたちだった。そうか、こんないたちもいるのかと感心した。
 しばらくお茶をしたあとに、尼さんの知り合いの演奏会に連れて行かれた。区民会館の小ホールをかりきっての室内楽で、わたしは音があまりに浅いので、とてもいらいらした。聴衆は友人知人がおおいのだろう、演奏がおわるごとのおおきな拍手にもいらいらした。アンコールなぞ聞きたくもなかったから、わたしは拍手をしなかった。となりに座った尼さんは、懸命というにふさわしいいちずさで盛大な拍手をおくっていた。
 帰り道に尼さんが「みんなでいっしょにやる音楽っていいですね。その時の不協和音みたいなものが、どこかで化けて全体で大きな調和になったりする」と言った。諸法無我という言葉をなんとなく思いだして、まだ出家はとおいかもしれんなあと思った。

2009.11.01 | Comments(0) | Trackback() | 未選択

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