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犬も歩けば穴に落ちる
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スポーツとか、飲み会とか、とかとか。
そういうので、不安や不満なんかを解消したり、ごまかしたりというのは実に有効な手段だと思う。
うげーうげーっとうなりながら、ひたすら寝つづけたり、煩悶しつづけるよりよっぽど健康的。だからわたしもやってみようかと思ったのだが、せつなくなってやめてしまった。わたしが、抑圧し、いないことにしてしまったわたしの感情は、では、どこに行くのだろうかと考えたら、わたしの一部にもうしわけない気がして、やめてしまった。
腹痛や頭痛もおなじで、わたしの体がシグナルをだしているならば、最後までちゃんと聞いてやらなければいけないだろうというような気がして、彼らがさっていくまでじっとつきあう。かれらが痛みを訴える以上、薬でなかったことにするのは、ひどくむごいことのような気がする。
けれど、わたしは効率のひどく悪い生き物らしく、それはもう四六時中エンストする。これはさすがに、まずかろうと思ってついに薬に手を出すことにした。ゆっくりと化学物質がわたしのからだ中へと回りこみ、かつてわたしの一部であった痛みをしずかにおおいかくす。これでわたしはすこしは能率的に動けるようになるだろう。わたしはわたしの一部と引き換えに能率を手に入れる。そうか、選択というのはこういうことなのだと思う。意思あるものはみな選択する。かつて自分であったものを差し出しながら、あたらしい自分を獲得する。
”わたし”というのはみな意思の総体なのだ。わたしはわたしの意志でわたしを切り捨て、意思するところのわたしに向かって変質をとげていく。
小学校の保健の授業で、受精できなかった卵子は死んでしまうのだと聞いて、報われずただ死んでいく、誕生にむかうこともできたはずのわたしのなかの幾百の卵子を思ってひやりとした罪悪感をおぼえたことを思い出す。だが初潮をむかえ毎月、月のものに付き合ううちに、そのいたたまれなさも忘れてしまった。
なんだ。わたしは昔からずっと、たくさんのわたしを切り捨てて生きてきたのじゃないか。
わたしのからだは、いま、薬のおかげでとてもかるい。軽さが、かつてわたしであったものの喪失をしらしめる。それが、せつなくおもわれるのは、その喪失がまだ新しくなまなましいものだからだろう。わたしが習慣として血を流すようになったように、わたしの選択へのいたたまれなさは、いつか消えていくものなのだろうか。
2009.11.06 | Comments(0) | Trackback() | 未選択
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